同級生が思い出させてくれたFacebookの原点

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休日は、ブログなども休みにして、オン/オフを切り替えているつもりなのだけれど、今日は、軽く書きたいことがあったので、自分のカタルシスのために。

Facebook、大好きで、仕事中でもタブに常時開いていたり、電車で移動中でも、ニュースフィードを追っかけたりしているのだけれど、ちょっと、依存症では?と思えたりもして。
簡単に自己分析すると、自分の知人の場合、仕事関係の人が多く、ITの新しい話題に敏感な人も多数。
自分が気になっているような分野、ソーシャルメディアだったり、スマホやWEB関連、プログラミング、デザインの情報をシェアしてくれるので、それを絶えず追っかけて、ときには、コメントも入れてというような感じ。

ちょっと、追われている感じもしていたところ、少し、考え直そうと思う出来事があったので、記しておく。

facebook / dkalo

Facebookって学校の同窓生のためのSNSだったんだ

本当に、うっかりのミスで、プロフィールの自分の高校の卒業年度を間違って登録していたことに気づいたのが、5月の終わり。

正しく設定し直したら、「知り合いかも?」に多くの高校の同級生が。一昨日あたりから、友達申請して、旧交を温め中。

かなり同級生同士が盛り上がっていて、昔と同じように、みんなやりとりしている。

そういえば、Facebookって元々、同じ大学に通う学生同士の交流のためのSNSだったんだよな。

こういう、オンライン上の同窓会みたいな使い方って本来的なものなんだろうな。よいツールだ!

Wikipediaの「Facebook」

ようやくこの歳になって、大分角が取れて、未来のことをひたすら追いかけるだけではなくて、これまで歩んできた道、自分の過去も今の自分の土台となる大事な財産として愛しむことができるようになってきた気がしていて、こうやって、昔の同級生とつながりを持てることは非常にうれしい。

見られることを気にしすぎて自由じゃなかったかも

高校の同級生たちのページを見ると日々の生活の写真や仕事や飲み会の様子、子どものことなどの投稿であふれていて、その人の今の生活の一部を垣間見ることができる。

気がついたのは、タイムラインになっていない人も結構いること。タイムラインのカバーの写真が未設定の人も多い。

でも、それで別にその人がどういう人かわからないわけではないし。

つまり、言われているほど、普通の生活をしている人にはたいしたこと、重要なことではないのでは?と思った。

セルフブランディングだとか、新しいものはキャッチアップしておきたいとかそういうことを自分は気にしすぎてFacebookを使っていないか?と。

確かに、シェアするときは、他の人にも役に立つだろうなとか、何かコメントしてくれるかなとか、誰かのリアクションを期待して、ピックアップしたり、コメントしたりしていることもある。

いくつかのブログで読んだことがあるけれど、Facebookでは、よそ行きの顔を持っていて、あるいは、Facebook用の人格があって、それに沿うように使っていたかも。
(こういうところがFacebookの苦手なところという人もいるのは理解できる)

多様性、人と違うことを楽しみたい

誰かに見られていることを全く気にしないということは難しいけれど、単純に、これが、今の自分という感じで、記録として残していきたいなと。

似たような環境にいて、共感を得やすいようなことを言って満足する。それもかまわないのだけれど、今回、つながることのできた高校の同級生たちは、全く違う場所(日本各地、海外)で違う仕事をしていて、違う趣味を持っている人がいて、その違いを見ること、それが楽しいのだということを思い知らせてくれた。

今日からは、もっとその違いを楽しめるように、自由に使っていこうと思う。

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